田中康夫とは

著名人

この項目では小説家・政治家について説明していまんねん。

敷島製パンの元社長については田中康夫(会社社長)をご覧おくんなはれ。

田中康夫(たなかやすお、1956年4月12日‐)は、平成期における日本の小説家、政治家。

新党日本代表。

前長野県知事。

愛称はヤッシー。

学歴は一橋大学法学部卒業。

学位は法学士(一橋大学)。

文学ポータル各国の文学記事総覧出版社・文芸雑誌文学賞作家詩人・小説家その他作家目次1政治活動1.1政治路線1.2新党日本1.3長野県知事時代1.3.1「脱ダム」宣言1.3.2市町村合併1.3.3脱記者クラブ宣言1.3.4「信州」改称1.4改革知事の終焉2作家活動2.1主な作品2.1.1小説2.1.2日記文学2.1.3エッセイ2.1.4評論2.1.5その他2.2受賞歴2.3テレビ・ラジオ出演2.3.1テレビ2.3.2ラジオ3歌手活動4プライベート5来歴6関連項目6.1人物6.2その他7外部リンク7.1県政関連7.2個人//[編集]政治活動[編集]政治路線政治的立ち位置は中道左派・第三の道的な市民主義リベラル。

旧来の自民党的なばらまき政治・土建屋行政を批判・解体する一方で、左派の労働組合主義にも批判的であり、草の根市民運動に携わってきたことから自らをウルトラ無党派としとる。

サッチャーの様に利権にまみれた旧体制を壊し、ブレアの様に公正な社会を再構築する、ちう両方の役割を一人でこなす政治家だと自負しとる様に、英国の第三の道に考え方が近い。

近年はアメリカ的な弱肉強食の経済政策を導入する自民党の新自由主義経済路線を強く批判し、貧困層の幸せを確保する最小不幸社会を主張しとる。

アフガニスタン侵攻やイラク戦争を引き起こしたブッシュ政権とそれを支持する自民党親米保守派を批判し、反米ならぬ嫌米と他国に依存せん自立外交を主張しとる。

また、ベネズエラのウゴ・チャベス反米左派政権の自立路線を賞賛しとる。

2003年にネクスト内閣の地方分権大臣に指名された民主党や、田中が政治的マキャベリストとしてしばしば賞賛する民主党現代表の小沢一郎とは比較的近い距離にある。

[編集]新党日本かつてファシズムに抵抗するために共産主義者と手を結んだドゴールの話を引用し、小異を捨てて大同に付くべきだ(協力して自民党親米保守の新自由主義に抵抗すべき)として、2005年8月21日の長野県知事在職中に、郵政民営化問題で離党した自民党保守本流派と新党日本を結成し代表に就任する。

党代表に就任するも知事職は辞さず、副知事不在のまんま選挙運動を行い県内に動揺を招いたちうわけや。

また、国民新党から参議院の長谷川憲正が出入りするやらなんやら「選挙互助会」と揶揄されたちうわけや。

なお、この騒動の最中に朝日新聞長野支局記者が、亀井静香と田中康夫の会談が長野県やったかのような虚偽のメモをでっち上げ、それに基づき誤った記事が紙面に掲載されるちう事件が起こる。

2006年の長野県知事選で落選した後、同党から2007年夏の第21回参議院議員選挙への出馬を検討しとると言われとる。

[編集]長野県知事時代神戸空港反対運動や阪神大震災の復興ボランティアに参加するやらなんやら市民運動に積極的に参加し、その精力的な活動から長野県の市民団体やらなんやらから2000年の知事選への立候補を打診され、出馬したちうわけや。

田中の出馬表明時には現職の吉村午良知事の後継と目されておった前副知事が日本共産党以外の県議会議員や農協や建設業団体やらなんやらようけの業界団体の支持を得ていて当選確実だと言われておったが、旧態依然とした長野県政の現状に加え長野オリンピックの運営費をめぐる使途不明やらなんやらのスキャンダルに批判が集中。

連合の組織的な支援に加え、若さと清新なイメージで幅広い支持を受け初当選を果たしたちうわけや。

県知事就任後、脱ダム」宣言や脱・記者クラブ宣言やらなんやら、歯に衣着せぬ発言や革新的な提案で県内外からの大きな支持と注目を集める。

公共事業費や公務員人件費の削減を行ったため、長年赤字で財政再建団体へ転落寸前やった長野県の財政は黒字化し、5年間で923億円の累積債務を減少させたちうわけや。

また、予算配分に関して福祉や教育分野に重点的に配分するやらなんやら財政構造を大きく変化させたちうわけや。

[編集]「脱ダム」宣言「脱ダム」宣言は、2001年2月20日に公式に発表され、ゼネコン主導の乱開発を否定するものとしてようけの好意的な反響を呼んや。

政府から降りてくる公共事業費に頼りきりの体質を改善しようとする試みやけど、このせいで県内の土建屋業界、県議会議員のようけから激しく批判される。

せやけどその後、浅川流域住民に示された「ダム代替案」は、流域住民を納得させるには至らなかったのみならず、堤高30mから45mの堰堤を有する「河道内遊水池」と称する実質「ダム」でしやろかかったちう評価をするものも多い。

また長野県議会議員のようけはダム建設をいまだに切望しており、他県と同じく大手建設業者(ゼネコン)との癒着が一部から指摘されとる。

中止したダム事業#脱ダム宣言によるものも参照。

[編集]市町村合併知事就任以来、国主導の「平成の大合併」に対する慎重姿勢が際立っとる。

中山間地域やらなんやらの合併が困難な町村に対して自立を支援する「長野モデル」を打ち出したり、「市町村合併をせん宣言」をした福島県矢祭町を視察し、また合併の是非を問う住民投票が行われた千葉県四街道市や長崎県小値賀町やらなんやらを訪れて合併反対派を応援したり合併反対の講演を行ったりしたちうわけや。

長野県内では住民投票の結果を受けて合併協議が破談に追い込まれる事例が続出したが、これもこうした田中知事の慎重姿勢が少なからず影響しとると考えられる。

それでも関係市町村議会の議決を経て合併を知事に申請した県内市町村の合併については、法に則ってその関連議案を定例県議会に提出してきたが、山口村と岐阜県中津川市の越県合併については、2004年4月に両市村からの申請を受理した後、6月、9月の定例県議会への合併関連議案提出を見送ったちうわけや。

ほんで12月定例会への議案提出の条件として、全県民を対象とした意向調査の実施を決めたが、そのための関連予算案が9月定例会で否決されたことで、12月定例会でも田中知事は合併関連議案の提出を見送ったちうわけや。

このため、県議会の大半の会派(社民党、共産党を含む)の共同ちう形で合併関連議案を議員提案し、その可決を受けてようやっと合併に同意し、総務省への申請、官報告示を経て2005年2月13日の合併が辛うじて実現したちうわけや。

[編集]脱記者クラブ宣言「大手マスコミの情報独占を止めさせるため」として打ち出し、記者クラブに加盟でけへんようけのジャーナリストや外国メディア、雑誌から賞賛されたが、これにより既成権益を守ろうとする大手マスコミから激しく非難され、読売新聞、信濃毎日新聞やらなんやらの県内外の大手マスコミとの確執を生んだといわれとる。

[編集]「信州」改称2004年1月のインタビュー取材で長野県を信州と改称することを検討しとると発表。

改称の理由として「道州制に先立って州を作る」、「観光やらなんやらでは信州ちう名前のほうが有利」やらなんやらを挙げたちうわけや。

以降、ホームページや自己紹介やらなんやらでは「信州・長野県知事」と名乗っておったちうわけや。

実際に「信州」の愛称を常用する人もようけ、数々の「信州ブランド」があるものの、背景としては中南信県民(田中自身も少年時代を松本で過ごしとる)が「長野県」を「長野」と略称することを好まないことがある。

このことを示すかのように、2003年に住民票を長野市から泰阜村に移しとる。

この問題が裁判沙汰となりよった2004年には長野市の住宅を退去して泰阜村、両親宅がある軽井沢町から通勤するやらなんやらのパフォーマンスを行い、批判を浴びたちうわけや。

[編集]改革知事の終焉彼の急進的な政策転換に対しては野党がようけを占める県議会や業界団体の反発を惹起し、当初の知事選で支持しておった連合も労働委員会の人事をめぐる対立から支持を撤回。

代わりに当初田中に批判的やった日本共産党が事実上の与党になりよったちうわけや。

加えて、独特のパフォーマンスに対する批判から当初田中を擁立した面々も批判の度を強め、2選目の後期は支持率を落としたちうわけや。

対立する議会との溝は埋まらず3選を目指した2006年の知事選では彼を支援したのは共産党だけやったちうわけや。

自民党・公明党の推薦を受けてダム計画再開を主張するとともに組織型選挙を展開する対立候補の村井仁に競り負け落選したちうわけや。

村井は田中の改革を「見せ掛けだけ」と批判し、改革の象徴やったガラス張りの知事室を廃止するやらなんやら改革色を一掃。

田中県政は名実共に終焉を迎えることとなる。

[編集]作家活動第17回文藝賞受賞作品となり、社会現象とまで言われたデビュー作『なんとなく、クリスタル』の、既成の文学の形態から逸脱した文体や視点は、当時日本の文学界に衝撃を与え、『純文学』的なものを良しとする風潮がまだまだ強かった文学界やマスコミを中心に賛否両論を巻き起こしたちうわけや。

また、小説やエッセイだけでなく、日記文学や各種評論の著書も多い。

特に近年はホテルやレストラン、航空会社やらなんやらの評論活動が知られとるが、他のようけの評論家と違い、普段の移動の際や女性とのデートの中で身銭を切って体験したことを元に評論しとるため、その内容の確かさと切り口の鋭さには定評がある。

せやけど、県知事時代は公的な立場であるため評論活動は自粛しておったちうわけや。

現在、文藝賞選考委員を務めるが、所謂『作家ギルド』的な集まりを嫌うためもあり、文学界では一匹狼的存在である。

[編集]主な作品[編集]小説「なんとなく、クリスタル」(処女作)「たまらなく、アーベイン」「ブリリアントな午後」「昔みたい」「H」「オン・ハッピネス」「ハッピー・エンディング」「三田綱坂、イタリア大使館」[編集]日記文学「東京ペログリ日記」「神戸震災日記」[編集]エッセイ「ナガノ革命638日」「田中康夫が訊く食の極み」「ファディッシュ考現学」「一炊の夢」[編集]評論「きょうび真っ当な料理店」「それでも真っ当な料理店」[編集]その他「田中康夫主義」「神戸から長野へ新・憂国呆談」(浅田彰との共著)「嗤う!」「僕たちの時代」「全日空は病んでいる」[編集]受賞歴第17回文藝賞受賞(1980年)[編集]テレビ・ラジオ出演[編集]テレビ報道番組の積極的な出演のほか、バラエティ番組をはじめ、数ようけの番組に出演。

以前は司会の仕事もこなしておったちうわけや。

「なんとなく、クリスタル」で話題を呼んだ後、フジテレビ「笑ってええとも!」金曜日のコーナー「五つの焦点(フォーカス)」にレギュラー出演したのを皮切りに、テレビ朝日の女性向け情報番組「Oh!エルくらぶ」(1986年-)、読売テレビのワイドショー「Beアップル2時!」(1992年-)では司会を務めたちうわけや。

また、フジテレビ「たけし・逸見の平成教育委員会」では生徒(解答者)として出演。

「たけし落し」を見事完成させ、世界一周海外留学の旅を獲得したちうわけや。

県知事就任以降は、長野県の観光資源を広くPRする事を意識し、トーク番組やバラエティ番組の出演の際には、県の名産品やらなんやらを積極的に紹介することが多かったちうわけや。

また、長野県内で流れる「シートベルト装着」のキャンペーンCMにも自ら出演し、呼びかけを行っておったちうわけや。

[編集]ラジオラジオ番組の出演もようけ、過去には文化放送「梶原しげるの本気でDONDON」のコメンテーターを長年に亘り担当。

この他、大阪・MBSラジオの「さてはトコトン菊水丸」をはじめ、神戸空港問題で旧知の仲となりよった河内音頭の歌手・河内家菊水丸がパーソナリティーを務めるワイド番組にも不定期で出演。

また、TBSラジオの「BATTLETALKRADIOアクセス」では、現在も隔週月曜のコメンテーターとして出演しとる。

なお、この番組は月曜から金曜までの放送やけど、知事就任後から2005年3月まで、地元長野のSBC信越放送が、田中が出演する月曜のみネットし、放送しておったちうわけや。

[編集]歌手活動1982年に発売された企画もののLPレコード「音版ビックリハウスウルトラサイケ・ビックリパーティー」の中で、雑誌「ビックリハウス」の編集長・高橋章子とのデュエットで「ブリリアントなクリスタルカクテル」(作詞:田辺聖子/作曲:沢田研二)ちう曲を収録し、発売したちうわけや。

この時のレコーディングの模様は、知事初当選の翌朝、一部テレビ番組で秘蔵映像として放送されたちうわけや。

また、1981年に発売された柴田恭兵の楽曲「なんとなくクリスタル」に作詞家としてデビューを果たしとる。

[編集]プライベート往年は女子大生好き、近年はスチュワーデス好きとして有名で、現在、交際中の相手も日本航空のスチュワーデスである(週刊誌やらなんやらで多用される「スッチー」ちう言葉の命名者でもある)。

[編集]来歴1956年(昭和31年)4月12日-東京都武蔵野市に生まれる。

本籍地は静岡県。

1964年(昭和39年)4月-父田中博正が信州大学教授に就任したため、家族全員で長野県上田市に引っ越す。

1966年(昭和41年)-父親の異動により長野県松本市に引っ越す。

1975年(昭和50年)-長野県松本深志高等学校卒業。

東京大学文科1類を受験して失敗、東京の駿台予備校で浪人生活を送る。

1976年(昭和51年)4月-一橋大学法学部入学。

1980年(昭和55年)-卒業直前にサークルでの横領事件に関与して停学処分を受け留年、停学期間を利用して第一作『なんとなく、クリスタル』を執筆、その年の「文藝賞」を受賞。

1981年(昭和56年)3月-一橋大学法学部卒業、モービル石油に入社するも3ヶ月で退社以後文筆活動に専念。

1995年(平成7年)1月17日-阪神・淡路大震災発生。

『オン・ハッピネス』の舞台でもある神戸市の被災に衝撃を受け、ボランティア活動に従事。

1998年(平成10年)-「神戸市民投票を実現する会」の代表に就任。

神戸空港建設反対運動を行うわ。

2000年(平成12年)10月26日-長野県知事に就任。

2001年(平成13年)2月20日-脱ダム宣言を表明。

2002年(平成14年)7月5日-長野県議会6月定例会で知事不信任決議が可決。

2002年(平成14年)7月15日-不信任決議を受け、失職を選択。

2002年(平成14年)9月1日-長野県知事選挙で圧倒的な得票差をつけ再任。

2003年(平成15年)9月26日-長野県下伊那郡泰阜村へ住民登録。

2004年(平成16年)11月18日-泰阜村の選挙人名簿に登録したことの適否に関する裁判で最高裁判所が上告を棄却(敗訴)。

2004年(平成16年)12月2日-長野県北佐久郡軽井沢町へ住民票移転。

2005年(平成17年)8月21日-新党日本の代表に就任。

2006年(平成18年)8月6日-三選を目指した長野県知事選挙で前衆議院議員の村井仁候補(自由民主党支援、公明党推薦)に破れ落選。

534,229票(村井は612,725票)。

2006年(平成18年)8月31日-長野県知事(二期目)の任期満了に伴い退任。

2006年(平成18年)10月-長野県知事退任後も役職に留まっておった、「信州・長野県観光協会理事長」やらなんやら13団体に関連する辞任届が提出されたことが報道される。

[編集]関連項目新党日本脱ダム宣言[編集]人物浅田彰安斎肇大宅映子岡留安則亀井静香小林興起田原総一朗徳大寺有恒西川りゅうじん河内家菊水丸奥秋昌夫[編集]その他噂の真相NAVI神戸空港イベント系サークル朝日新聞の新党日本に関する捏造事件あて職[編集]外部リンク[編集]県政関連信州知事の田中康夫と申しまんねん。

 http://www.pref.nagano.jp/governor/ (長野県知事公式サイト。

タグ:田中康夫
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/33465326

この記事へのトラックバック

輸出戻し税と還付金
Excerpt: 今、輸出産業が好景気だといわれていますが、こと税金を考えた場合、当然といえば当然の結果のように思うのです。 輸出戻し税 これです。 消費税は基本的に、日本国内の販売には売上に対して5%の消費税がか...
Weblog: 在宅日記
Tracked: 2007-02-11 23:34